「自分の体調は、自分が一番わかる」
—— 走るほど、見えなくなる。

よく言われる言葉がある。「自分の体調は、自分が一番よく分かる」。健康診断でも面談でも繰り返し耳にする教えだ。当たり前のように聞こえる。だが、この教えには、ひとつの落とし穴がある。マラソンランナーは、走っている最中、足の傷に気づかない。5月、新入社員も走っている。走っているときには、自分の体調は見えない。物差しは、自分の中にはない。外に置く必要がある。

この記事で分かること

  • 走っている最中は、自分の体調が見えなくなる。これは性格ではなく、脳と神経の働きの問題
  • 「いつもの自分」という基準は走り始めてから書き換わっている。物差しは外に置く必要がある
  • 睡眠・食欲・朝・集中力・興味・対人・身体症状の7領域を、外側のチェックリストとして眺める

「体調が悪い」の物差しは、誰も持っていない

「体調が悪い」「調子が悪い」と言うとき、私たちは何と何を比べているのか。

実は、明確な基準を持っている人は少ない。多くの場合、「いつもの自分」と比べている。だがその「いつもの自分」は、走り始めてから書き換わっている。基準そのものが動いていれば、ズレに気づけない。

体温計のない部屋で、自分の体が熱いかどうかを判断するようなものだ。

「いつもより少し疲れている」と感じても、その「いつも」が先月の自分なのか、入社前の自分なのか、本人にも分からない。頑張って走り続けると、人は自分の状態を「いつも通り」として処理する性質がある。基準を内側に置いている限り、いつまでも「いつも通り」のままだ。

だから、物差しは外に置く。具体的・客観的な観察項目を、自分の外側にチェックリストとして用意する。これが「セルフチェック」と呼ばれているものの本質である。

7つの観察項目 —— 自分の外に置く物差し

厚生労働省「こころの耳」のセルフチェックや、職業性ストレス簡易調査票でも、観察対象になっているのは次のような領域だ。専門知識は要らない。日々の生活の中で観察できる。

① 睡眠

寝つきに30分以上かかる日が続く。夜中に複数回目が覚める。早朝(普段より1〜2時間早く)に目覚めて二度寝できない。休日にいくら寝ても疲れが取れない。睡眠は最も早く、最もはっきり崩れる物差しである。睡眠の崩れが2週間続く場合、それだけで医療機関の受診を検討してよい水準だ。

② 食欲

食事の味がわからなくなる。食欲がない、または逆に過食になる。食事を準備するのが急に億劫になる。体重が1ヶ月で2〜3kg以上、増減した。食欲の変化は本人より家族や同居人が先に気づくことが多い。

③ 朝の状態

起きたときに頭が重い、体が重い。出勤の準備に普段の2倍以上時間がかかる。出勤前に吐き気・腹痛がある。通勤途中に動悸、息苦しさ、めまいがある。朝の状態は、自分の身体が職場に対して出しているもっとも素直な信号である。

④ 集中力・判断力

簡単な計算でミスする。同じ書類を何度も読み返す。会議の話の流れを追えない。決められないことが増えた。集中力・判断力の低下は、本人より周囲の方が気づきやすい。本人は「自分が悪い」「努力が足りない」と帰結させがちなので注意が必要。

⑤ 興味・楽しみ

好きだった趣味に手が伸びない。休日に何もする気がしない。友人との約束を断るようになる。「楽しい」という感情が湧かない。これは「アンヘドニア(興味・喜びの喪失)」と呼ばれる状態の入口で、うつ病の中核症状の一つでもある。

⑥ 対人関係

人と話すのが急に疲れる。連絡を返すのが遅くなる、または返せなくなる。ランチや雑談を避けるようになる。誰かといると涙が出そうになる。対人を避ける行動は、外から見ると「最近付き合いが悪い」程度に映る。本人にとっては「自分を守るための退避行動」であることが多い。

⑦ 身体症状

頭痛、肩こり、腰痛が長引く。胃のあたりの痛み・違和感。風邪をひきやすくなった、治りが遅くなった。月経周期が乱れる(女性の場合)。メンタルの不調は、身体に先に出る。身体の異常として現れているうちに対応する方が、回復は早い。

「疲れ」と「不調」の境界線

走っていれば、疲れる。連休明けがだるい。月曜日の朝が重い。これは多くの人が経験する。たいていは数日で回復する。これを「疲れ」と呼ぶ。

「不調」は、回復のリズムが崩れている状態を指す。具体的には、休んでも回復しない、1週間以上似た症状が続いている、日常生活(睡眠、食事、人付き合い、業務)のどれかに影響が出ている、という3つだ。

7つの物差しのうち、これら3つの条件のうち2つ以上が当てはまるとき、それは「疲れ」ではなく「不調」のステージに入っている可能性が高い。これは医学的な診断ではない。日々の自己観察で使える、実用的な目安である。

制度の建付けも「セルフケア」が入口

会社で年1回行うストレスチェックの本来の目的は、労働者自身が自分のストレスの状態に気づく機会を提供することにある。「不調者を見つけ出すための検査」ではなく、「自分の状態を観察するための物差しを、外から渡す」というのが制度の中心にある設計だ。

こころの耳のセルフチェックも、設計思想はまったく同じである。自分の中にはない物差しを、外側から渡す。ストレスチェック制度は、その仕組みを年1回、職場に組み込むためのものだと理解しておけばよい。

ところが、最大の落とし穴がある

7つの物差しを並べておきながら、最後にこの話をしなければならない。

走っているとき、人は物差しを取り出さない。

物差しは外に置いた。しかし、物差しを使うかどうかは本人の判断に委ねられている。走っている最中の人間は、立ち止まって物差しを取り出す動作そのものをしない。「自分は大丈夫」「これくらいで止まるのは恥ずかしい」「みんなも頑張っている」——走り続ける理由はいくらでも作れる。

さらに、不調が深まるほど、自分の状態を客観的に見る力(前頭前野の働き)が落ちる。気づけない自分に、気づけない。これは性格の問題ではなく、脳の働きの問題である。

つまり、構造はこうなる。最も気づくべき人が、物差しを取り出さない。物差しを取り出さない理由を、本人は説明できる。物差しを外に置いても、それだけでは届かない人がいる。だから、もう一段の話が要る。

次回予告 —— 抱え込むより、渡す方が早い

第4回(最終回)では、相談という行為の手前にある「思い込み」を、一つずつほどく。「自分で考えてから、相談しなさい」と教えられて育った人にとって、相談はそもそもどう感じられているのか——そして、抱え込むことと渡すことは、どちらが早いのか。その話で最終回を締める。

参照元

  • 厚生労働省「こころの耳:5分でできる職場のストレスセルフチェック」https://kokoro.mhlw.go.jp/check/
  • 厚生労働省「こころの耳:働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト」https://kokoro.mhlw.go.jp/
  • 独立行政法人 労働者健康安全機構(JOHAS)の無料医師相談窓口:https://www.johas.go.jp/